Yuimyon’s blog

平凡大学生

命はみな平等?

先日、大好きなアーティストのライブに行ってきた。ライブ自体が初めてだったためとても緊張していた。

いざライブが始まり、そのアーティストのカリスマ性を肌で感じている最中、ふとこんなことを思ってしまった。

「目の前のあのアーティストが居なくなったら、この会場にいる約3万人くらいの人々が悲しむけれど、私が居なくなっても悲しむ人は、日本国内で指で数えられるくらいしかいないのか。」と。

私は、命は平等であると教えてくれた先生を恨むと同時に、目の前にいるアーティストに対して羨ましい気持ちが芽生えた。そして、それに気づいた時、彼女のカリスマ性がより一層引き立ったのを感じた。これが本来のライブの意味なのだろうか、とすら思えてきた。

そのライブに行ってから何週間か経つが、そこで芽生えた無力感を未だに払拭できていない。

もしかしたら、心のどこかで自分は特別な存在だと勘違いしているのだろうか。だから、ひょんなことでそれが否定されて悔しいのだろうか。

なにがともあれ、私は大好きなアーティストのライブで自分の無能さを痛感した。

お金の価値

30円の価値はどれほどだろうか。

買い物をしていたとき、マウスウォッシュを買おうと値段を見たら近所のスーパーより30円高かった。そこで私は一瞬買うのを躊躇ってしまった。しかし、そのスーパーの帰り道にコンビニで110円のお菓子を買った。そのお菓子は必需品ではない。そういえば一昨日も、近くの喫茶店で50円差の二種類のケーキで迷った挙句、50円高モンブランを選んだ。

お金の価値が時や場所によって変わる経験をしたことがないだろうか。

気分が落ち込んだ時、たくさん食べたりたくさん服を買ったりする。また、ネズミのテーマパークに行ったときには高級チョコクランチをたくさん買う。しかし、その一方で鳥もも肉より鶏むね肉を選ぶ自分がいる。ネズミのテーマパークに関しては「金銭感覚狂うよね問題」かもしれないが、それに加えてどうやら、私の中でのお金の価値は毎日変動し続けているようだ。

鶏むね肉と鳥もも肉のお金の差を気にするのに、お菓子を買うときに値段なんて確認しない。同じ30円の違いであるはずなのに、まったく違う30円のように感じてしまう。

お金の価値の話をしていたら、ただお菓子を買い込む自分に甘い自分が露呈してしまったので、ここで終わろう。

大人になる

大人の定義はなにか。

このブログを読んでいるのは大人か子どもか。そもそも大人とはなんだろうか。私のこの小さな脳みそで考えても答えは出てこない。なんせ平凡だからだ。

大学生が社会人になった時大人になるのか。18歳になった途端、大人になるのか。一人暮らしを始めたら大人になるのか。しかし、50歳を過ぎても子どもみたいな人がいれば、どこかの子役みたいに5歳くらいで大人より大人な発言をしている人もいる。Instagramで「子どもっぽい人の特徴」という投稿があり、そういうものによく飛びつくのだが結局何も得られずに終わってしまう。その投稿には「突拍子のない行動・言動が見られる」とか「飽き性である」とかそういったことが書いてあったが、それが子どもの定義ならば、大学生の私はまだ大人ではないようだ。

親と話をしている時、子どもだなと感じる時がある。大学生になるまでは親は完璧で正しい生き物だと思っていた。しかし、親はときどき間違ったことをしたり言ったりする。だから大学生になって親が不完全な生き物で完全に大人になっているわけではないと学んだと同時に、たまに意見が噛み合わないとき、私自身もとても子どもだと感じる。そこには子ども同士の対立が存在しているようだ。補足だが、私は親を尊敬していることだけは書いておこう。無条件に。

私はなぜか小学生のときから早く大人になりたくて仕方がなかった。その理由は大人は自由だと思っていたからだ。自分で稼いだお金で自分の好きな場所で暮らして好きなものを買って暮らすことができるからだ。お金は何にでも化ける。しかし、今になって社会人に待ち受けているのが仕事、結婚、出産といったたくさんの責任だったことを知った。子どものままでいたい。いまはそう思っている。ただそうすると、やはり社会人になるのが大人になるということなのだろうか。社会人になると、最低でも子どもみたいな大人にはなれるのだろうか。

ブログを書いていたら更にわからなくなってしまったので、ここで終わろう。

母子

普通の親子とはどんなものなのだろうか。私はそれがわからないのに、それを追い求めている。大学で会う友達はみんな母親と仲が良さそうだ。恋人ができれば逐一報告したり、なんでもない日によく心配のメールが来たりするそうだ。私はそんな経験がない。

普通の人にとって母親という存在は絶対的なものなのだろうか。どんな時も頼れる、そういう絶対的な存在なのだろうか。私は幼少期に母親の1番大切なものが娘である自分でないことに気づいてから、必死に承認欲求を満たすため色んなことをしてきた。小学生から勉強を頑張っていたのは母親に認められるため、褒められるためという理由だけだった。しかし、高校生のとき模試で田舎の進学校内1位になり、大急ぎで家に帰って母親にそれを伝えた時「そっか。」だけの返事が返ってきて、心の糸が切れたのが自分でもよくわかった。それからは勉強に対する熱量はなくなり、なんとなく大学生になった。そして、そんな母親から逃げるように地元からかなり離れた大学に進学したが、それでもいまだに母親のメールの一言一句に神経を尖らせている。やっと自由になれたと思っている自分と、いまだに母親に認められたい、褒められたいと思っている自分がいる。

私は母親に愛されずに育てられたわけではない。人並み、それ以上に丁寧に育ててもらった。だからこそ、この気持ちをうまく表現できないのだ。世の中にはもっと酷い親、環境で育った人がいるのも知っている。だからこれは普通の大学に通っている、普通の大学生の独り言である。

絶対的な何かをくれる人が欲しいと思い、色々な人とお付き合いしてみた。しかし、心のダニに噛まれたくらいの小さな穴を完全には埋めることができなかった。そして、誰かと生活するとか、誰かに一途に愛されるとかそういうことが性に合わないことに気づいてしまった。人生100年時代、どうしたら1人で生きていけるのか、その方法を考えている。